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愛犬を殺されたロシア男性が友人を殺害
と、いうニュースを友人のうにおさんから聞きました。
犯行に及ぶ経緯は、犯人の男性が自宅に戻ると愛犬が殺されていて
愛犬の肉を友人2人が食べようとしているところだったそうです。

いやもう、その話を聞いた私の第一声は
「え?何がいけないの?当たり前じゃない?」でした。
もうその二人をひき肉にしてハンバーグにして愛犬のお墓に
供えても良いくらいです。私が裁判官やら判事なら無罪を言い渡します。

法に違反しているので犯罪ではあるでしょうが。
私的には食べた分の肉を友人二人から生きたまま愛犬に取り返すくらい
やらないと気が済みません、きっと。
もちろん吐かせるという意味ではなく、彼らの肉で償ってもらいます。

犬を飼う者として正直許せません。犯人ではなくその友人二人がです。
人の命が何より重い。大人は口だけです。
死なないで欲しい人という存在は在るでしょうけど
そんな外道な連中の命は湯船に浮く抜け毛2本分の価値もありません。

まったく憤慨です。

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【2008/01/11 01:09】 | 日記 | トラックバック(0) | コメント(8) | page top↑
<<黒の少女 | ホーム | PINO>>
コメント
難しい問題ですね。ニュース記事自体を読んだ訳ではないので、愛さんの書かれた事から類推になります。
この話で自分が陪審員等、飼い主を裁く身であるならば、次の2点を重要視して、友人2名の処遇を考え、その上で飼い主の咎を愚考するかと思います。
1:友人2名は飼い主の愛犬と知らなかったのか?
2:知っていたならば、それを食さねばならぬほど、飢餓状態であったのか?
このどちらもがYesであった場合、自分は友人2名に対し同情します。よって、飼い主は通常の殺人罪として有罪だと思う。
逆にどちらもNoであって、面白半分などであれば、概ね愛さんと同意、死すべき存在であったと思います(やや極端ですが)。よって、飼い主には情状酌量を加えると思います。
上の2点と重複しますが、友人2名の行った行為が、少なくとも単なる面白半分の乱獲ではなく、あくまでも食すための行為であったかどうかで、受ける印象がかなり異なります。食すためであれば、全てが許されるとは言いませんが、全く理解できないと言う話ではなくなるからです(食肉文化の根底を否定する状態とも言えるからです)。
そのため自分の場合、飼い主が友人2名を殺害し、その上で2名を食したのであったとすれば、飼い主に対し殺人罪をそのまま適用したりはしないでしょう。
(最後の一文は駄文だなw)
【2008/01/11 11:09】 URL | おにちゃん #2R.EqBSw[ 編集] | page top↑
実は私も元の記事を読んだわけではないので
詳細は存じません。

なるほど。
私が友人二人の一人の立場になっているとします。
そしてもう一人の友人が私の大事な人として
飼い主<私<もう一人の友人 の順番で
大事だったと仮定し、食べるものが飼い主の犬のみ
の場合は、確かにもう一人の友人に食べるさせるかも
しれません。

しかし今回は飼い主さんに同情の余地があるので
そんなにお腹がすいているなら君たち二人で殺しあって
勝った方が死肉を食べなさい、が私の意見です。
飼い主の飼い犬と知らなかった場合でも
大事なペットが食べられた飼い主さんの心情に
憐憫の情を禁じえません。
くじらを食する事も人間を食べようともその地方の
文化であれば当然の事なのでしょうし
もちろん犬を食べること自体はなんとも思いませんが
その犬はただの犬ではなく「大事なペット」という呪が
かかっているならば別です。
大事な人が殺された時と同じような怒りに
かられたことでしょう。
こればかりは殺害者の生殺与奪は被害者の
心情に委ねられるべきだと私は思っています。
現地の行政には飼い主さんの
心のケアの方を重視して欲しいものです。

と、いいますか私は死刑に肯定的な思想を
持っています。司法が下す死刑ではなく
私刑の死刑です。結構危険思想ですよね。
フフ


【2008/01/12 00:15】 URL | 本村愛 #c7k2OGQI[ 編集] | page top↑
上の2人!
コメント長すぎww
記事かと思っちゃいました(A;´・ω・)フキフキ
【2008/01/12 17:34】 URL | あも #6nvdKFQ2[ 編集] | page top↑
え~!?ここはあもさんも参加しなきゃww

例えば、愛さんの示された不等号式を用い、今回の事例を考えると、友人2名にとっては、
友人1=友人2>飼い主>飼い犬
で、あったがため、飼い犬は食されてしまったのでしょう。
ただ飼い主にとっては
飼い犬=飼い主>友人1=友人2
となっていた。
そして、世間一般が同じく不等号を付けた場合、
飼い主=友人1=友人2>飼い犬
となってしまうがため、殺人罪を適用してしまうのでしょう。

これは呪と言う言葉を用いると「人間は生を受けた時点で、他の人間によって、人間であるというだけで『人間である』という呪がかかっている」というのが、現在の法規制で通例化しています。
逆を言えば、飼い犬の呪よりも更に大きな(大勢の)呪がかかっているため、このような事件記事として取り上げられたのでしょう。

人が人であるだけでエライ!と声高に公言している様で、とてもおこがましい話しではありますが…。
【2008/01/12 21:45】 URL | おにちゃん #2R.EqBSw[ 編集] | page top↑
その通りです。飼い主=友人1=友人2>飼い犬という
世間一般的な法律の式が通り判決は決まることでしょう。
そして飼い犬より人間が大事という呪がかかっている
という事も間違いありません。
ただペットも人間も本来命の重みという概念では等価値なのです。そして身近のペットと見知らぬ他人を比べたら
自分のペットを選ぶと思います。何故ならば他人の死は
知ったところで心を痛めるフリをする程度なのが
人間だからです。飼い主=友人1=友人2>飼い犬と
いう式が通るのは法の場であり、人間という枠の中では
必ずしも通る訳ではありません。
そして私が尊重するキーワードは私刑と復讐です。

人が人であるだけでえらいと公言している訳ではないと
思います。おにいちゃん様の仰っていることは
法の中では「普通」です。
所謂正論です。



【2008/01/13 11:12】 URL | 本村愛 #c7k2OGQI[ 編集] | page top↑
私刑を行うって事は、折角飼い主自身が、
飼い主=飼い犬>友人1=友人2
という、内包している不等式を
飼い主>友人1=友人2=飼い犬
と、全て御霊の世界としては、同列に導いてしまう行為になっちゃいます。
貴く愛すべき飼い犬と飼い主を結ぶ等号を、一時的感情に任せ友人達に与えてしまうのは、意味がないと思うのです。
しかも愛さんの仰るように、正論のみで話をすれば、
友人1=友人2>飼い主…飼い犬(隷属するモノ)
といった扱いとなります。
これらを回避すべく最善はやはり、そのまま友人2人を訴えて、社会的制裁を加え、飼い犬の地位を回復すべきであったと思います。
【2008/01/13 18:49】 URL | おにちゃん #2R.EqBSw[ 編集] | page top↑
人の命も飼い主の価値としては同等です。
それぞれの場があり、寄せる思いが近しいほうへと
傾くのが人では無いでしょうか。

社会的制裁で満足できる場合もあるでしょうし
そうでない場合もあるという事です。
所詮社会的制裁は他人が決めたもので
飼い主様が決めたものではありませんから。

飼い犬を殺した程度では、満足のいく刑罰は難しいでしょう。
そういう社会的制裁が私の感じている憤慨の
一翼を担っているのです。

私がもしペットを殺された場合、おそらく友人二人は
殺さないでしょう。方法があるなら別ですが。
ただ親や教師に言って終わることでしょう。
個人的に報復は当然しますが。

飼い主様がとった行動は正直爽快です。
そうするにそういう事です。
私なら殺したいどまりなところを、彼は殺したのですから。

飼い犬の地位とはよく理解りませんが
ぬるい刑罰で回復できるような地位なのでしょうか。

私刑や死刑に反対する人には
常々聞きたいことがあります。
目の前で家族を同じように殺されても
冷静でいられるのかと。

どうするかは被害者の方が決めるべきです。
その上で出した決断が斧での殺害なら
私は赦したいです。

実際の判決等は妥当なのでしょう。その社会では。
ただ、私は社会という方向からは言葉を述べません。
むしろ真逆だとおもいます。



【2008/01/13 19:50】 URL | 本村愛 #c7k2OGQI[ 編集] | page top↑
愛さんの仰る『飼い主様がとった行動は正直爽快です。』に関してですが、なるほど、確かに第三者的立場で、記事を読む分に関して言えば、概ね同意致します。
ただ、これが自分自身であった場合、さてはて本当に爽快でしょうか?仇を討てたその瞬間は爽快かも知れません。そう願い、叶った瞬間なのですから。ただ、社会的な罪だの何だの、そういう物はさておき、ごく普通の生活を営んでいた者が、ある日を境に復讐の鬼と化し、目的を達成した末、果たして鬼は人に戻れるでしょうか?そういう「行動の後」という観点から見た場合、自分にはこの飼い主が幾重にも不幸に見えてしまうのです。
では『目の前で家族を同じように殺されても冷静でいられるのかと。』の疑問ですが、これは私自身も過去に幾度も思った事なので、その疑問を抱く事自体は良く分かります。まず「冷静で~」となると、間違い無く答えは「否」でしょう。ですが、今回の記事のような、瞬間的衝動で犯人に対する殺意をそのまま形をする事にできたとしても、後々犯人が分かった場合、殺意を抱いたとしても、人はそれを実行できるでしょうか?きっと抱く殺意は同じであったとしてもです。「思う」事と「行う」事には、大きな隔たりがあります。もっとも、求める罰と、実際に受ける罰の相違について、確かに近年、法が現実社会に追いついていない物が多く、どう見ても軽すぎる判決が多いため、余計に「私刑」へのあこがれを招いてしまうのかもしれませんが…。
もし、どうにもならない強烈な殺意により、後日であったとしても、その犯人に殺された者と同等の苦痛を…と「私刑」に走った場合、その「同等」とは誰がどの様に測るものでしょうか?「犯人はこれほどの苦痛を与えていない!よってその分を償ってもらう!」となる場合も考えられ、これは昔の「仇討ち」と同様、無限連鎖に走る可能性が高くなります。
以上、グダグダな長文となりましたが、「私刑」には反対、その代わり「死刑」というシステムは廃止すべきではない。と言うのが自分の総論で、今回の記事は「私刑」であったため、善しとはできないものと区別します。
【2008/01/15 14:58】 URL | おにちゃん #2R.EqBSw[ 編集] | page top↑
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